一杯卡布奇诺的随想

喜欢图书馆,特别喜欢看到自己想看的书就索性一屁股就近坐在地板上贪婪地汲取书中的养分,看完一本,放回去,又极其方便地拿起另一本。就这样,不受任何干扰,在地板上坐上一、两个小时。 喜欢读上一定的故纸堆和前辈论文之后,那种灵光一闪、高屋建瓴、纵观四方的感觉,但真正要执笔理清那一堆复杂的信息,不免有点徘徊。有时还是会觉得自己做研究的内动力不够。 今天在图书馆看到一个坐着轮椅的妹妹,一边费劲地转着轮椅,一边如饥似渴地翻阅着书。心里陡然生出惭愧。我四肢健全,虽然是亚健康,但至少脑袋还是能正常运转。老师、父母对我四处飘荡的学习都十分宽容和理解。更重要的是,我还有个只要是要利于研究的事,都会百分之百地支持我、鼓励我的他。他的存在,尽管有时不自觉地成了我疲倦了的逃避现实的甜蜜港湾,但更多的,是我的坚强后盾,一个促我前进的强劲助推力。以致只要我对研究稍有懈怠,第一个觉得对不起的就是他。有朝一日完成了论文,真不知道在后记上用怎样的语言来感谢。 宽敞的咖啡店里,回响着优雅轻松的旋律。明净的窗外,绿油油的草地,随风飘扬的树叶。一杯卡布奇诺,任由思想驰骋。文以抒情言志。要表达自己内心深处的情感,还是喜欢简练且饱含神韵的中文。偶尔,如此自己跟自己随意说说话,挺释然的。



食と職の話

先日、早大に留学していた日本語学科出身の友達と1年半ぶり会った。就職、仕事、日本、北京のことをたくさん語り合った。友達は既に仕事を始め大人になった感じがするけど、逆に前は会社生活が大半を占めていた私は、一組織に縛られずにフリーになって、はしゃいでいた。 一週間ずっとゴホゴホと咳きをしていると話したら、「北京の空気が乾いているからでしょう。特に東京と比べて」と言われた。そうか。やっぱり。レストランは事前に決まっていないから、探すのにちょっと時間がかかった。店がずらりと並んでいるように見えるけど、辛い料理か、脂っこい料理か、ファーストフード系か、割高な高級レストランしかない。東北出身で北京の大学に通っていた友達は、「しょうがないね。北京の人は辛い料理か脂っこくて味が濃い料理が好きみたいだから」と。そうそうそう。この間持ち帰りの北京ダッグはおかゆか、スープにした。ダッグがあれば、オイルも味付けも要らなくてわりとおいしく食べれる。まあ、最後はやっとシーフード系の店が見つかって、辛子が要らないと強調して注文できた。幸い、家の近くに新鮮で安い八百屋さんがあって、ほしい食材はすぐ入手できるし、毎日これまでなかった強い願望で自炊したい。飲み物は瓶の棗ヨーグルト(枣酪zao3 lao4)にした。スーパーにも棗味のヨーグルトが普通に売ってある。相性はまあまあだけど、棗が体にいいから、冷蔵庫にたくさん仕入れた。ほかのところで飲んだことがないから、北京ならではのものかな。 食の話はいつも止まらないな。さて、次の話題に移す。友達は大手の日系PCメーカーの内定を断って、本部がNYにある金融コンサルティング会社に就職した。理由の一つは日本語、日中間よりもっと広い会社がいい。もう一つは、日系の人事兼コミュニケーションの仕事より、一つの分野の実務知識を最初から吸収したい。今の仕事内容は、日本の金融情報を英語でまとめることで満足だと。中国の日系企業といえば、最近飛び降り自殺する会社員が多くて話題になっていて、中国人が特に女性の昇進が見えなくて、相変わらず評判が悪い。日本語学科の学生は特別でしょうがないけど、普通の学生は日系企業に就いても、二流人材に思われるかもしれない。一流は欧米系、国営系、もしくは韓国系に行っているから。 ほかの同級生の進路を聞くと、三分の一海外留学へ(主に日本だけど)、三分の一修士課程へ、残りは就職した。日本での就職は考えていないのと聞いたら、「日本って、仕事どころか、留学経験がある友達は留学1年で十分と皆言っていた」と。「そうか。なんで?」「あの社会に合わせるのが疲れる。自殺率を見ればわかるでしょう」と。やっぱり。自分も最初の留学1年でそれぞれ違う楽しみがある四季を楽しんでもう終わったから、とても充実して楽しかったけど、長くいればいるほど、合わないか、慣れていない習慣に多くぶつかってきて、自分らしく過ごせなくて我慢するときは増えてくる。 ちょっと古いけど、この間見た日本企業における外国人の就労についてのアンケートを思い出した。日本で働いている外国人は日本企業への就職を勧めたくない理由のトップが「出世に限界あり」と「日本企業は外国人の異文化を受け入れない場合が多い」とのことらしい。日本企業は、たとえ外国人の人材を採用しても、その人材の強みを発揮し、育成していく意識もノウハウも風土も不足しているかと思う。前はなんらかのきっかけで直接聞いた話では、経済産業省の関係の方は、既に問題がわかっていて、色々動き出しているようだけど、日本の社会風土は、世界中の人材を引き付けて、留められるように変わっていくのを切実に期待している。



こだわりは悩みの源

久々お釈迦様が悟った縁起説をめぐらせた。頭の中で。欲望、愛(執着)、念頭が人生の苦をもたらすとか。自分も、人間の一人として、なかなかそういう苦の源から抜け出せないなとたまに思う。 しかし、だれでもそんなに簡単に悟らないから、あとあとの仏教信者は、お釈迦様の説いたことを解釈したり、自分の理解を記したりした。世界はこうだ。人間はそうだ。こうしてくださいと、こうしてはいけないを口すっぱく説教した。そこから、戒律、いわゆる仏教的な倫理も生まれてきた。 こうしてはいけないというのは、既に一つの基準で価値判断を下しているから、明らかに執着しているのではないかといつも悩む。自分も、一番自分を苦しめているのも、その自分の頭や体に根付いている価値観かもしれない。そこから好き嫌い、是と非が生じてきて、違うものに出会ったら、いい気分が保ちがたい。愛が増えれば、憎みも増えてくる。 世の中にいろんな性格の人がいる。何でもわかりきっているような傲慢な人、見栄っ張りで心が貧しい人、ふしだらな人もいれば、英知に富んでも謙虚な人、素朴でピュアな人、全身全霊で大事な人を愛し、一生大切にしていく人もいる。また、自分と違う人の生き方を批判すればするほど、心が狭くなりがち。こだわりが多ければ多いほど、自分の世界が狭くなると同じように。 この一度しかない人生をいかに生きていけばいいだろう。夫は先日、悔いのない毎日を過ごしていきたいと言っていた。そうしたいね。私は、大地のように世界を包容し、太陽のように世界を照らすというのがかねてからの大きな目標だ。たまに変にこだわりすぎて、目標からはずれることがあるみたいで、忘れずにここにも明言しておく。 しかしながら、包容というのは、何でも許したり、人に合わせたりして、とにかく自分が我慢することに等しくないと思う。人を変えるより、自分を変えるとよく言う話だけど、人を変えることをあきらめようという意味ではない。すべての人が幸せになるのは難しいかもしれないけど、努力することがたくさんある。でも、結局最もよい方法は、自分がよい見本を示して、相手との接触により、相手に感化させたり、諭させたりすることなのかな。この意味では、自分を成長させることにより、相手も変わってくることと言えるだろう。 お釈迦様は7日間もずっと菩提樹の下で座り込んで、悩んでいて、悟ったけど、私はいつ悟るかな。



はっきりと伝えましょう

先日、早大北京事務所の日本人の方と会ってきました。同じビルに東大や、創価大学の事務所もあって、教育交流、研究提携などの事業を展開しているそうです。 北京はどうって話をしたら、北京滞在は結構楽しそうです。Iphoneは電話で注文したら、20分後届いて、5分後日本語インタフェースや日本語入力もできるようになって、便利すぎてびっくりしたとか。あとは、Iphoneで使える日中翻訳のアプリがほしいなという話も。帰ったらすぐDarlingに注文しましたが、もう少しお待ちをと言われて…… そして、中国の人と話すより、日本本部とのコミュニケーションのほうが気を使うとその方は言っていますが、いかに中国の人と接するかについて、悩んでいてつらい日本人のスタッフもいると言いました。 またありきたりの話題が出ましたが、改めて考えたら、中国人は基本的に自分の言いたいことを言うほうだけど、日本人は特に人と違う主張や考えを言うことを恐れているかもしれません。そういう均一的、協調性が守られている社会の育ちだから、人にNoを言ったり、はっきりと且つ論理的に人と議論するのが、慣れていないし、殻を破る勇気も要るのではないでしょうか。日本人自身も困るように、日本人と接している外国人も同じぐらい困っていると思います。一般的な外国人は、ものをはっきり言わない日本人が何を、どうして、どうやってこう考えて、行動しているのか、に対する日本人並みの察する意識、常識、力が足りないと思います。「察してよ」と相手に要求するより、日本人側が、相手のロジックを理解した上で、自分の考えをわかりやすく伝えて、もう一歩を踏み出したほうがよりスムーズにコミュニケーションできるかと感じています。



北京の思い出@北京

初めて北京に来たのは、7年前だったかな。学部生の卒論授賞式の参加。授賞式自体はよかったけど、冬で、雨も降っていて、寒かった。寝台列車で片道24時間もかかって、帰りは突然肩こりになって、今に至った。その後、一回わざわざ修論の資料収集のために来ていた。砂嵐で空は見えなくて、お風呂はちゃんと入れなくて、料理が辛かったり、饅頭が固かったり、とにかくおいしくなかった。その後の後は、仕事で2週間の研修だった。また辛い魚料理が出て閉口した。 考えてみれば、私にとって、北京の魅力は、三つの「多い」かな。名所旧跡が多い。資料が多い。いい大学が多い。自主的に行きたいと思うのは、この三つのどれかだ。この三つが中国では優先的に集められいるから、しょうがなく行く感が多いね。都だし、中央集権みたいなもんだし、昔から諸々のリソースが独占されていても別におかしいとだれにも言われない。 北京なまりの中国語に合わせるのは、日本語に合わせるより、言語神経を使う。特にZhi,Chi,Shi,Riだな。東京と比べたら、空気も水もだめだけど、食材やフルーツ、豆乳などはより豊富な気がして(中国の大都市なら大抵これらを揃っているけど)、自炊できればまだなんとかなる。外食は平均的に今一。夜買った饅頭は相変わらずまずかった。あの有名な北京ダッグも、あの脂っこいしつこさは、せいぜい二枚。噂によると、北京ダッグは中国の大都市で、唯一進出できなかったのが、広州らしい。うん、せいぜい二枚だから、商売にならないね。 ということでどうも北京が好きになれない気持ちだけど、今日は好きなところを二点発見した。一つは、北京の人は基本的に爽快で、やりとりの効率が高い。二つ目は、一つ目とも関係があるかもしれないけど、広いところが多くて、視野が広い。上海も広州も東京もどちらかというと、ごちゃごちゃ系。環境は人を育てる。広いところを眺めれば眺めるほど、視野も心も広くなる気がする。小さなことにもくよくよしないし、気にしない。仕事ならそれなりの細かさが必要だけど、生活なら、ちょっとおおざっぱでもいいかと思った。変な思い込みや、自分を窮地まで追い込めるより、明るくて、前向きになるほうだと思う。 東京の都立図書館も国会図書館も環境や施設が優れているけど、北京の国家図書館の広いスペース、広い本棚、広い机も心のゆとりを作ってくれている。



理性、信仰と人情

古代ギリシア文明は、理性や知識を尊ぶ価値観を世の中に出した。 古代ユダヤ人やインド人は、信仰、超越的な神様を究極の価値にしている。 古代中国人は、人と人の間の感情で世界を構築しようとしている。 我が家は、理性が働きすぎて、議論好きかもしれない。互いに「違うと思うことは、そうかと笑い飛ばせない」「納得しないことは納得しない」派だから。日本人の女なら、普通こういうところ男と争わないよとか、中国人の男性なら、これぐらい女性に譲るよとか、我が家になかなか通用しないみたい。ただの強弱、勝ち負けの問題じゃない。互いのことを傷つけない限り、議論は疲れるというより、脳が鍛えられて充実感がある。老年も二人でいる限り、「ぼけ」はないと思う。 そもそも、言葉、文字、概念、知識という理性のグループは全部限られている。突き止めたら、絶対に正しい基準はない。もしくは神様に求めるしかない。きちんと条件や前提を明確にし、枠を作った上で、正しいことはまだ言えるかもしれない。そういう条件つきのトピックを議論するなら、主観的な気持ちをなるべく除いて、概念や範囲への理解を確認し、根拠を明確に出して、論理的に話していくしかないな。同じ結論に無理に合意させることはない。二つ似通っても、独立した魂だから。 しかし、もし議論が喧嘩に転んでしまったら、またいつも人情、愛情で仲直りする。相手のことをたくさん心配して、相手にいやな気分をさせたくない、相手に楽しい毎日を送ってほしいという率直な気持ちがじわじわと沸いてくる。「情」のほうは、「理」に敵い、「理」を和らげている。 宇宙のあの究極のエネルギーのもとで、我が家らしい我が家を築いていきたい。



研究は難しくて面白い

今日は朝世田谷公園で運動できて、チケットも取れて、午後ある聖徳太子研究の先生とたくさん話せて、50円均一のブロッコリーと新鮮なとうもろこしも買えて、帰途は大雨に遭遇したけど、なんか幸せな一日でした。 今日会った先生は、お母さんの癌を看病する隙間に、研究情報をブログで更新しつづけていると聞いて、自分はまだ情報を蓄積する段階ですが、もっと時間を作って有益な情報を発信できたらいいなと思いました。 研究の話に戻ると、広州では、何人か先生と会ってアドバイスをいただいて、確信を得ましたが、道教研究の先生が日本のことに詳しくないし、日本研究の先生が道教のことをよくわからないようです。結局具体的な進め方は、自分で探って行くしかありません。 日本では、ちょっと強引な論証で「道教と古代日本文化」ブームを起こした説はあっても、それに対して、批判したくてもよくわからない学界の不都合で書きにくいとかという噂話がありました。しかし、あえて表に批判したり、反省したりしている説も絶えなくて、日本史研究の大家も見直すと言っていますが、今一「道教」という言い方、概念、枠をはずして議論したほうが一番無難なようです。うん、知識としての道教、神仙信仰としての道教、術としての道教、研究対象としての道教、などなど、人の立場によって、まちまちです。 しかし、自分はやっぱり真正面から、古代日本はなぜ「道士法」を断るようになったか、どう理解していたか、どう取り入れたかを取り組みたいです。取り組んでいます。 最後は、漢字文化圏の子音KTPの脱落か、母音追加するか、現状維持するか、中国、日本、朝鮮、ベトナム、それぞれ自分の道を選んで、進んできた話がありました。神様の交流もそういうプロセスを経たのではないかと先生の示唆が面白かったです。



中国人に負けない交渉術・私流(3)終

この投稿は、数えたら、2ヶ月も寝かせたと思う。 最初はPCの故障でドラフトを出せなかった。途中は、『すぐに役立つ 中国人とうまくつきあう実践テクニック』という本は特にビジネス上で中国人とのつきあいに十分にまとまっていて、役立つと思うから、書きたいことは少なくなっている。似たようなことを書かないし、興味がある方は、とりあえずその本を参考にしてください。5月中旬から、上海や広州をずっといたので、もう少し回りを観察し、結論を出したほうがいいかなと思ってここまで延ばしてしまった。 もともと「○○に負けない」という言い方はあまり好きではないから、これでこの話を終わらせて、中日交流の問題は、別途自分なりに書いていきたいと思う。 中国人と言っても、大きく分けると、北と南、沿海側と内陸側、都市と農村、 もっと細かく分けると、省ごとに、方言エリアによって、世代によって、考え方、教養、生活スタイルが色々違ってくる。この点では、吉岡健氏の北京人、上海人、広東人、福建人への比較分析は、網羅性がともかく、言っていることは基本的に合っていると思う。 今の時期といえば、文化大革命により崩壊された根本的な倫理を立て直し、20、30代が40、50代にマナーを教え、伝統文化が蘇り、外来文化と融合し、目先の利益に戸惑わされやすい人がまだ多くて、全体的に衣食住はまだ豊かではなくて、政府が国の経済を発展させながら、山積みの問題を解決するように試行錯誤しながら努力している時期だと思う。 あえて、中国人としての共通点というと、価値観や行動基準の優先順位として、例えば、家>所属組織>国、個人>他人(集団)、コネ(人情)>法律、臨機応変>計画性などがあるのではないかと思う。 それに沿う具体的な交渉術は結構ケースバイケースで、事前の綿密調査と斡旋、その場でしっかりと議論する、明確に自己主張を伝える、自分の権利を十分に行使する、など一般論なら、わざわざ言う必要もないと思う。 特にコネ、人脈を作ることがとても大事だとこのたびの一時帰国でつくづく思った。知り合いが居るか居ないかは、多くの場合、物事の成否にかかっている。特に商売、政府機関との付き合い、外資系企業以外の就職などなど。 中国人なら、普通、親戚や小学校から大学までの同級生、先輩後輩、先生がいるだけで、結構広いネットワークを持っている。 さて、特に外国人の皆さんにとって、どうやって人脈を作って、積むでしょう。権力、お金、何かの特技(美貌でも入る)を持っていれば、自然に人が集まってくるけど。ストレートにいうと、狙われている意味で集まってくる。こういう場合でも、いかに助け合う、信頼し合う関係を維持していくかに気を使わないと、人脈が定着しないし、広がらない。 では、自分から攻めていく場合、どうすればいいでしょう。日本人も基本的に義理や人情を重んずるから、疎い話ではないけど、ここでは日本人の人情との違いを意識して話を進めてみる。 一言でいうと、キーパーソンを見極めて、特別扱いする。その一人ひとりの助け合うキーパーソンにより、ネットワークを広げていく。中国人との交渉だけではなくて、中国社会に溶け込みたければ、必須だと思われる。