日本人より日本語が理解できるように

昨日、図書館の言語新書のコーナーを覗いたら、 『日本人の日本語知らず』という本がありました。面白いタイトルに惹かれて、手に取って目を通しました。 この本は日本人向けだからそういった内容を書いたと思いますが、私からすると、すべて初級日本語の授業で出てきたもので、新しいことも驚くこともありません。タイトルどおり、一般の日本人ならともかく、国語教師や日本語を研究している日本人でも、いきなり外国人向けに日本語を上手に教えるのは難しいなと改めて思いました。外国人への教授経験がある専門家の日本人教師を除いては、むしろ日本語をゼロから学習し、たくさん試行錯誤し、最終的にマスターし、日本語を常に外からの目で眺め、考えている外国人の日本語熟達者のほうが、外国人にうまく日本語を教えられるのではないかという私の持論の確信を深めました。 (注:ここで言う日本語、日本人は一つの例に過ぎず、ほかの言語とそのネイティブに言い換えても同じことが言えるでしょう。また、ここで強調しているのは、単に文を直したりするのではなく、「上手に教える」レベルの話です。) 理由は下記のように考えています。 1、日本語の学習経験がない。 外国人はなぜこういう疑問があるか、こういうミスを犯しがちなのか、日本語の学習経験者より日本人ネイティブのほうが首を傾げることが多いと思われます。外国人が日本語を使う発想を理解するには、日本語の特徴と学習者それぞれの母語や文化背景を比較分析できる最低限の知識がなくてはなりません。例えば、韓国人が中国人よりテニヲハを正確に使えるのも同じく膠着語の韓国語を母語としているから、とかです。うん、少なくとも一つの外国語をゼロから身につけるまでの経験があれば、より学習者の気持ちがわかると思います。 2、日本語を外から見る目はなかなか持てない。 日本人は、通常、当たり前のように日本語を正しく使っているから、問題意識がほぼ生じないし、中のメカニズムもわからないようです。例えば、「わからない」と「洗わない」の「ない」のアクセントはどうして違うのか。「授業が終わる、授業を終わる、授業を終える」のそれぞれの違いは?と聞かれたら、「へー。そういえばそうだね。初めて知った」と反応をする日本人は多いでしょう。まあ、日本人の日本語再発見につながりますが、残念ながら、質問の答えになっていません。 3、日本文化に囚われた身でうまく伝えられない日本語事情がある。 この点は、『日本人の日本語知らず』を読んで、新たに思ったことです。本の130頁に、「先生はとても上手に教えました」、「先生もほしいですか。」という日本語では許されない外国人の間違った言い回しに対して、先生自身が当事者のケースが多いので、なかなかいいタイミングで注意することができないと書かれています。 「ちょっと。こういう言語の文法を超えた社会文化事情は、先生が教えないと、だれが教えるのでしょう」と一日本語学習経験者の不満が思わず湧いてきます。先生はやはり日本人ですね。日本人の先生が外国人の学生に教えられない日本語事情があるのですね。日本や日本語に詳しい外国人だったら、日本人の上下関係や、日本人ならこう言われたら気が障るよ、とごく自然に教えると思います。ここでお願いですが、もし「お仕事がうまくいっているね」と外国人の後輩に言われたら、かげで「なにこいつ!えらそうに!」と怒りたい気持ちを抑えて、丁寧に日本の文化を教えてあげたらいかがでしょうか。 ということで、私は完璧な日本語を使うようにするとともに、外国人に日本語を更に上手に教えられるように、努力し続けます。



坐禅してみよう

まだぼろぼろだが、一応博論のドラフトを提出したから、ブログ再開。週末は一年ぶりの鎌倉に行ってきた。去年一緒に行ったときの彼氏も旦那になった。時間が流れているのではなく、飛んでいる。奈良京都圏の古代日本のほうが馴染みあるが、東京在住で、ちょっと足を伸ばしたら、中世文化を楽しめるのも幸せの一つ。 鎌倉は禅宗文化の発祥地で、自然も歴史文化も満喫でき、心が洗われるすがすがしい風景を有する聖地。今回は回ったのが、北条時頼が創建した官寺の建長寺と北条氏の私寺である円覚寺。建長寺の山奥から覚園寺までのハイキングコースもブーツで制覇した。ただ、覚園寺の境内に入る案内ツアーは15時までというのを知らなかったので、逃してしまってやや残念。 曹洞宗の黙照禅に対して、臨済宗は公案禅を主張すると、あるツアーガイドが説明していた。境内に貼ってある坐禅会のお知らせをみて、参加しようと思ったが、紅葉観賞がメインな目的と「注意」されて、あきらめた。が、坐禅のことを思い出した。一時期、寺院めぐりみたいなツアーのコーディネーター役として、中国の大学生とともに、多くの禅宗寺院を訪ねて、そこで、有名な禅師に教わり、坐禅を日課のように体験していた。半跏趺坐しかできないが、坐禅の醍醐味を味わえてよかった。 「無眼耳鼻舌身意」というのはたとえば、日本でもお馴染みなはずの『般若心経』で唱えられている。苦や悩みはすべてこの「眼耳鼻舌身意」の六根から入ってくると昔々お釈迦様が教えてくださった。六根を清浄するのは苦から解放するための基本修行である。坐禅もその修行法の一つ。個人の理解で、坐禅の目標は、意(念)をとめようとする意を止めようとする意を止めようとする。。。究極的に「意」を無くすことだが、「意」で「意」を無くすのは論理的に無理だし、「意」で「眼耳鼻舌身」を無くそうとし、「息」に専念し、身・息・心の統一調和をはかろうとすることであろう。 この坐禅は、表面的に瞑想と混同されやすい。昔、ヨガを練習していたごろ、最後に必ず先生に美しい草原や山の自然世界へ導かれて瞑想するシメがある。何を想うことにせよ、想う念頭を発しようとする時点で、禅と正反対の方向にいっている。よって、坐禅もMeditationに訳せないし、そのままDhyānaか、禅Zen、禅定などかな。無論、静かに座るだけでも、苛立ちを和らげられるから、ポイントは自分の心を見つめようとするかのことだと思う。 坐禅については、目を開けるべきかどうかもよく議論される点の一つ。日本の坐禅ルールを詳しく調べていなくてなんともいえないが、自分の理解としては、目を八分閉じて、鼻の先を見つめ、更に心を見つめることは「明心見性」の真意ではないかと思う。今度仏像の目を注目してみたら。 建長寺の奥に半僧坊権現様を祭る神社もあることを今回初めて気づいた。さすがに神仏習合だな。半僧坊権現様も坐禅していたでしょうかね。