坐禅してみよう
まだぼろぼろだが、一応博論のドラフトを提出したから、ブログ再開。週末は一年ぶりの鎌倉に行ってきた。去年一緒に行ったときの彼氏も旦那になった。時間が流れているのではなく、飛んでいる。奈良京都圏の古代日本のほうが馴染みあるが、東京在住で、ちょっと足を伸ばしたら、中世文化を楽しめるのも幸せの一つ。
鎌倉は禅宗文化の発祥地で、自然も歴史文化も満喫でき、心が洗われるすがすがしい風景を有する聖地。今回は回ったのが、北条時頼が創建した官寺の建長寺と北条氏の私寺である円覚寺。建長寺の山奥から覚園寺までのハイキングコースもブーツで制覇した。ただ、覚園寺の境内に入る案内ツアーは15時までというのを知らなかったので、逃してしまってやや残念。
曹洞宗の黙照禅に対して、臨済宗は公案禅を主張すると、あるツアーガイドが説明していた。境内に貼ってある坐禅会のお知らせをみて、参加しようと思ったが、紅葉観賞がメインな目的と「注意」されて、あきらめた。が、坐禅のことを思い出した。一時期、寺院めぐりみたいなツアーのコーディネーター役として、中国の大学生とともに、多くの禅宗寺院を訪ねて、そこで、有名な禅師に教わり、坐禅を日課のように体験していた。半跏趺坐しかできないが、坐禅の醍醐味を味わえてよかった。
「無眼耳鼻舌身意」というのはたとえば、日本でもお馴染みなはずの『般若心経』で唱えられている。苦や悩みはすべてこの「眼耳鼻舌身意」の六根から入ってくると昔々お釈迦様が教えてくださった。六根を清浄するのは苦から解放するための基本修行である。坐禅もその修行法の一つ。個人の理解で、坐禅の目標は、意(念)をとめようとする意を止めようとする意を止めようとする。。。究極的に「意」を無くすことだが、「意」で「意」を無くすのは論理的に無理だし、「意」で「眼耳鼻舌身」を無くそうとし、「息」に専念し、身・息・心の統一調和をはかろうとすることであろう。
この坐禅は、表面的に瞑想と混同されやすい。昔、ヨガを練習していたごろ、最後に必ず先生に美しい草原や山の自然世界へ導かれて瞑想するシメがある。何を想うことにせよ、想う念頭を発しようとする時点で、禅と正反対の方向にいっている。よって、坐禅もMeditationに訳せないし、そのままDhyānaか、禅Zen、禅定などかな。無論、静かに座るだけでも、苛立ちを和らげられるから、ポイントは自分の心を見つめようとするかのことだと思う。
坐禅については、目を開けるべきかどうかもよく議論される点の一つ。日本の坐禅ルールを詳しく調べていなくてなんともいえないが、自分の理解としては、目を八分閉じて、鼻の先を見つめ、更に心を見つめることは「明心見性」の真意ではないかと思う。今度仏像の目を注目してみたら。
建長寺の奥に半僧坊権現様を祭る神社もあることを今回初めて気づいた。さすがに神仏習合だな。半僧坊権現様も坐禅していたでしょうかね。
