12月 6, 2010 - Posted by xiaoling- 0 Comments
まだぼろぼろだが、一応博論のドラフトを提出したから、ブログ再開。週末は一年ぶりの鎌倉に行ってきた。去年一緒に行ったときの彼氏も旦那になった。時間が流れているのではなく、飛んでいる。奈良京都圏の古代日本のほうが馴染みあるが、東京在住で、ちょっと足を伸ばしたら、中世文化を楽しめるのも幸せの一つ。 鎌倉は禅宗文化の発祥地で、自然も歴史文化も満喫でき、心が洗われるすがすがしい風景を有する聖地。今回は回ったのが、北条時頼が創建した官寺の建長寺と北条氏の私寺である円覚寺。建長寺の山奥から覚園寺までのハイキングコースもブーツで制覇した。ただ、覚園寺の境内に入る案内ツアーは15時までというのを知らなかったので、逃してしまってやや残念。 曹洞宗の黙照禅に対して、臨済宗は公案禅を主張すると、あるツアーガイドが説明していた。境内に貼ってある坐禅会のお知らせをみて、参加しようと思ったが、紅葉観賞がメインな目的と「注意」されて、あきらめた。が、坐禅のことを思い出した。一時期、寺院めぐりみたいなツアーのコーディネーター役として、中国の大学生とともに、多くの禅宗寺院を訪ねて、そこで、有名な禅師に教わり、坐禅を日課のように体験していた。半跏趺坐しかできないが、坐禅の醍醐味を味わえてよかった。 「無眼耳鼻舌身意」というのはたとえば、日本でもお馴染みなはずの『般若心経』で唱えられている。苦や悩みはすべてこの「眼耳鼻舌身意」の六根から入ってくると昔々お釈迦様が教えてくださった。六根を清浄するのは苦から解放するための基本修行である。坐禅もその修行法の一つ。個人の理解で、坐禅の目標は、意(念)をとめようとする意を止めようとする意を止めようとする。。。究極的に「意」を無くすことだが、「意」で「意」を無くすのは論理的に無理だし、「意」で「眼耳鼻舌身」を無くそうとし、「息」に専念し、身・息・心の統一調和をはかろうとすることであろう。 この坐禅は、表面的に瞑想と混同されやすい。昔、ヨガを練習していたごろ、最後に必ず先生に美しい草原や山の自然世界へ導かれて瞑想するシメがある。何を想うことにせよ、想う念頭を発しようとする時点で、禅と正反対の方向にいっている。よって、坐禅もMeditationに訳せないし、そのままDhyānaか、禅Zen、禅定などかな。無論、静かに座るだけでも、苛立ちを和らげられるから、ポイントは自分の心を見つめようとするかのことだと思う。 坐禅については、目を開けるべきかどうかもよく議論される点の一つ。日本の坐禅ルールを詳しく調べていなくてなんともいえないが、自分の理解としては、目を八分閉じて、鼻の先を見つめ、更に心を見つめることは「明心見性」の真意ではないかと思う。今度仏像の目を注目してみたら。 建長寺の奥に半僧坊権現様を祭る神社もあることを今回初めて気づいた。さすがに神仏習合だな。半僧坊権現様も坐禅していたでしょうかね。
7月 19, 2010 - Posted by xiaoling- 0 Comments
久々お釈迦様が悟った縁起説をめぐらせた。頭の中で。欲望、愛(執着)、念頭が人生の苦をもたらすとか。自分も、人間の一人として、なかなかそういう苦の源から抜け出せないなとたまに思う。 しかし、だれでもそんなに簡単に悟らないから、あとあとの仏教信者は、お釈迦様の説いたことを解釈したり、自分の理解を記したりした。世界はこうだ。人間はそうだ。こうしてくださいと、こうしてはいけないを口すっぱく説教した。そこから、戒律、いわゆる仏教的な倫理も生まれてきた。 こうしてはいけないというのは、既に一つの基準で価値判断を下しているから、明らかに執着しているのではないかといつも悩む。自分も、一番自分を苦しめているのも、その自分の頭や体に根付いている価値観かもしれない。そこから好き嫌い、是と非が生じてきて、違うものに出会ったら、いい気分が保ちがたい。愛が増えれば、憎みも増えてくる。 世の中にいろんな性格の人がいる。何でもわかりきっているような傲慢な人、見栄っ張りで心が貧しい人、ふしだらな人もいれば、英知に富んでも謙虚な人、素朴でピュアな人、全身全霊で大事な人を愛し、一生大切にしていく人もいる。また、自分と違う人の生き方を批判すればするほど、心が狭くなりがち。こだわりが多ければ多いほど、自分の世界が狭くなると同じように。 この一度しかない人生をいかに生きていけばいいだろう。夫は先日、悔いのない毎日を過ごしていきたいと言っていた。そうしたいね。私は、大地のように世界を包容し、太陽のように世界を照らすというのがかねてからの大きな目標だ。たまに変にこだわりすぎて、目標からはずれることがあるみたいで、忘れずにここにも明言しておく。 しかしながら、包容というのは、何でも許したり、人に合わせたりして、とにかく自分が我慢することに等しくないと思う。人を変えるより、自分を変えるとよく言う話だけど、人を変えることをあきらめようという意味ではない。すべての人が幸せになるのは難しいかもしれないけど、努力することがたくさんある。でも、結局最もよい方法は、自分がよい見本を示して、相手との接触により、相手に感化させたり、諭させたりすることなのかな。この意味では、自分を成長させることにより、相手も変わってくることと言えるだろう。 お釈迦様は7日間もずっと菩提樹の下で座り込んで、悩んでいて、悟ったけど、私はいつ悟るかな。
6月 11, 2010 - Posted by xiaoling- 0 Comments
論文の現状を先生に話したら、テーマと方向性が認められた。 これで安心して更に計画を具体化できる。 来月の拠点はまた変わった。 というか、直前じゃないとどこにいるかははっきり言えない。 しばらく不安定かもと先生に伝えたら、 人並みの「大変だね」じゃなくて、 なんとも思っていない顔で、人生はそもそも不安定だからと淡々と答えてくれた。 さすが人生の先輩で、ゆとりのある心持だなと思った。 よく昔の先生や友達に、今何をしているか、何をしていたかが聞かれる。 理解してもらうのは、どうしても説明が長くなる。 まあ、夢を探していた。夢に向かって努力していると言うことにした。 人はそれぞれものを見る基準がある。 他人の目を気にしすぎて、不本意な行動を取る人や社会は理解に苦しむ。 人に役立つや、人と協力するなども、あくまでも自分で決めることだし。 人生設計は自分でするもので、幸せかどうかも、自分の心次第。 自分の心の命じるままに、自分を信じて、自分の人生を生きていきたい。
5月 11, 2010 - Posted by xiaoling- 1 Comment
说起如何写好学术论文,似乎课堂上没这样的专门授课。 以前问师兄师姐,就是叫我模仿导师的论文,模仿高质量论文就好。 问起什么可称之为好论文,就是说要有问题意识,要有创新,有足够论据,能自圆其说。 而似乎没有更多地去细究钻研,如为什么说这样的论文就高质量,好在哪里,该如何去训练和提高等等。 都这把年纪了,写作方法完全可以自学,责任在自己。 自愧的是为什么现在才发觉要来好好钻研如何写好一篇合格的学术论文。 看了些经验和建议,略记如下,警惕自己,实践过程中还会有所补充。 以宗教哲学类的论文为模型来说。 Ref.:http://www.jimpryor.net/teaching/guidelines/writing.html 需具备的基本能力: 对于以文献为主的研究来说,对文献的解读和运用能力(质和量都很重要),对前人研究的理解能力,以及纵横古今的广阔思维和视野是最基本的吧。 注意点: 1、站在读者的立场上写文章。 2、注意区分事实、他人的意见和自己的意见。 3、一篇哲学论文是由为一些观点的合理辩护所构成,需要谦逊地提出一个小(范围的)观点或判断,但是要使观点清晰、直白,并且提出富有逻辑地理由、论证来支撑。 4、反复推敲,几易其稿。
5月 10, 2010 - Posted by xiaoling- 0 Comments
もう少し教育の話をしたい。 たまにdarlingと塾の話をする。 日本人は大抵、小中学生の時、塾に通っていたって。 みんな、学校の科目をもう一回塾で講義を受けるって。 塾の先生は、学校の先生より教えるのがうまいと。 なんか本末転倒で、学校の教育効果をもう少しアップできれば、 自然にゆとり教育になるんじゃないのかな。 中国にも塾や家庭教師がある。 私には、塾は補強的なイメージしかない。 中国で、通う学生は、二種類いる。 1、何か特技を習いたい人。書道、絵画、楽器など。 2、学校での落ちこぼれ組。 成績がいい学生は、わざわざ塾に行って、同じく教科書の内容や入試対策などの講義を受けない。頭がいい人なら、学校ですぐ消化できないことは、独学でも補える。 日本みたいに、塾に通わされていないし、落ちこぼれでもないから、通う必要もなくてよかったけど。小中学校は、教科書勉強漬けと寝る以外に、もっと特技勉強や、いろんな本、いろんな体験をしたかったなと少し残念な気持ち。 5月2日、南京で開かれた国際学長フォーラムで、中国に世界レベルの一流大学が誕生するのは「早くても20年後」だとする見方が示された。アメリカの一流大学基準で判断されているけど、一流と言えるレベルまでまだまだ時間がかかるな。教授一人二人の考え方や教え方で学校の体制を変えられる話ではないし。 米イェール大学のリチャード・レビン学長は「中国の大学生は常に受け身で考える力が足りない」、英オックスフォード大学のアンドリュー・D・ハミルトン学長も「中国には権威に果敢に立ち向かう学生が不足している」と話した。 どちらかというと、現在は、そう指摘された大学生のほうが多いね。 受身がだめ、自分で考えたいと悟ったのも相当遅かった。 20年間のものの判断基準が揺らいだのが大きなきっかけだったかも。 まあ、スタート時点が遅かったけど、柔軟な頭と広い視野があれば、自主的な考える力、失敗を恐れない挑戦力が付くのは難しくないと思う。
5月 5, 2010 - Posted by xiaoling- 0 Comments
「師」とは、何か。 高1の教科書には、唐代の散文家、韓愈の「師説」という「教師」とは何かを追求した文章がある。 師とは、「伝道」・「受業」・「解惑」なりという。 It takes a teacher to transmit wisdom, impart knowledge and resolve doubts。 「道」への解釈は人によってまちまちだと思うが、個人的には、人間のあり方、生き方を伝えられたらと思っている。 「受業」(「受」、「授」と通じる。日本語の授業の原形か)は、知識や技そのものを教えるより、いかに知識や技を得て、吸収する方法を伝授すると思う。 「解惑」とは、文字通り、人の戸惑い、疑問、悩みを解くこと。 皆は、学校の「師」、人生の「師」、身近にいる両親という「師」を含めて、多くの「師」と触れ合った、触れ合っているでしょう。 とても尊敬し、今でも忘れられなく、自分の人生を導いてくれた「師」は何人ぐらいいるでしょう。 私は、「師」本人のあり方、生き方、知識への理解し方、疑問の解き方が一番生徒、受け手に響くと思う。 自分のあり方、生き方、考え方の魅力を磨いて、周りに示せば、十分に教育の効果があると考えている。 人に、何か教えることはとても難しいことだ。 特に大人に。 教え方、言い方一つで、 「自分の価値観を押し付けるな」 「何その上目線、えらそうに」 「それぐらい、知っているよ」 教え方の工夫改善は、「師」として永遠に追求するテーマだが、 そういう言われると、その人に二度と教えない可能性が高い。 研究でも、議論でも、上から見ないと、そのものの全体像も本質も掴みにくいことも確かだ。 議論しないと、真実や最もいいやり方が見えてこないかもしれない。 しかし、「謙虚な心」を持つことは、成長していきたい人はもちろん、「師」になろうとする人にとっても大切なことだ。 「謙虚な心」とは、心を虚しくする、空にすることだ。 心がいっぱいになると、何も入れられなくて、人の話を反発したり、排除したりしてしまう。 人、人の話のいい所を注目して、吸収するこそ、自分の成長につながる。 人の問題ばかりを批判するのが、伝われば人のためになるが、伝わらなければ単なる自己満足だ。 完璧な人間がいないが、だれでも「師」になりうる。 良き師になろう。
4月 14, 2010 - Posted by xiaoling- 0 Comments
前から、宗教を研究する人は、どれか特定の宗派に属するのがよろしくないと言われています。 一般的な信者はともなく、研究者でも、自分の信じたり、認めたりしている宗派の優位性をついつい主張したがります。 頭の潜在意識ぐらいで。 例えば、仏教を信じていて、仏教の教義を求めている人は、仏教の内容が少ない文献を精査する優先順位も低くなるでしょう。 実際の宗教発展史を見ると、たとえ祖師が最初、他宗派を排斥しようとしていなくても、つまり、他宗派の思想を受け入れても、 あとの信者は、自分の宗派のピュアさを強調し、真理が唯一のごとく、一種の正統論を立てようとします。 宗教の本当の源は、排他的ではないと思います。